スペシャルティコーヒー豆 AKAGAWA

二人の珍道中

メキシコ

9月23日メキシコ空港に着く。

「さあー困った、土屋さん。何を言ってるのかサッパリ解らない。」

グアテマラからメキシコの空港に着き、出国するときに係官がパスポートを返してくれない。 何か言っているのだが、私も土屋氏も理解出来ない。 相手は渋い顔でなく笑顔で話しているから、悪いことではないと、雰囲気で判断しゲートを出る。

メキシコ三菱商事の白根氏が迎えに来ており、今の出来事を話すと、 彼もどうしてか解らないと言う。 気を取りなおしてシティから約1時間の古代遺跡ティオティワカンに向かう。 初めてのラテンアメリカの遺跡見学である。 太陽のピラミッド、月のピラミッドなどを見学したが、 夕方になりピラミッドには登れなかった。 その後の2回メキシコ訪問時には太陽、月両ピラミッドには登ってみた。

シティに戻り、白根氏宅に招待され、奥さんの手料理(おでん、焼き肉、エビフライ)を御馳走になる。 マンションは4人家族で50坪くらいの広さがあり、メイドさんもおり、日本の感覚では豪邸であるが、 商社の駐在員はだいたい何処も同じ様な暮らしぶりであると聞く。

白根氏宅に別れをつげ空港へ、夜の12:30発の飛行機でペルーに飛ぶ。 無事パスポートも帰り、一安心で機中にて

「ポルファボール セルベッサ」

と、ビールを飲む。

ペルー

9月25日朝7:00ペルーの首都リマに着く。 今回で3回目のペルー訪問であり、今まで一度もコーヒーの生産地を見ていない。 今回はペルーのコーヒー産地見学を期待してきたが、やはり左翼ゲリラ<センデロルモノソ>の活動が、 特にコーヒー産地がある高地で活発化しており、またもやカラブリに終わる。

ペルー三菱商事の林社長にご挨拶に伺うと、

「明日、日本から<ユーミン>という人が私の所に挨拶に来るが、どんな人か知っているか?」

と聞かれる。

「ユーミンは日本では有名な歌手ですよ、何しに来るのですか?」

「三菱パジェロ車のコマーシャル撮影の為、ペルーとブラジルに来るそうです。」

ブラジル訪問を終えて帰りの飛行機でユーミン一行と同じ機内であった。 トランジットのバンクーバ空港でユーミンを見かけたが<小柄な女性>の印象が記憶に残っている。

ペルーに来るたびいつも吃驚するのは、市内のコーヒー業者を訪ねると、 外にコーヒーがうずたかく何百俵も積まれている。 リマは雨が降らない所とは聞いているが、もし降った事を考えるといつも気になってしょうがない。

ブラジル

9月27日AM7:00ブラジルサンパウロ空港に着く。 三菱サントス事務所の寺久保氏が迎えに来ている。 4回目のブラジルであり、なぜか<ただいま帰ってきたよ>と言う気持ちになった。 さっそくサンパウロ市内のマックスオージホテルにチェックインし、お昼まで寝る。

午後、サンパウロ市内から約120km、1時間半の所にある、東山農場を訪ねる。 この農場は三菱岩崎家の農場で、日本の盛岡にある小岩井農場とは兄弟である。 熊田農場長の話しによると1000ヘクタールの広さがあり、 その内300ヘクタールにコーヒーが植えられている。 サンパウロ市内からは一番近い、コーヒー地帯で大変古い農家が多い。

ブラジルのメイドさんがコーヒーを焙っている ブラジルのメイドさんがコーヒーを焙っているところ。
手で回しているのが焙煎機。焼きあがったら、手前の篩い(ふるい)で冷ます。 東山農場で。

日本移民の成功者

翌日サンパウロから600kmのミナスゼライス州モンテカルメイロに飛行機で向かう。 ウベランデアまで飛行機で、そこから車で2時間 、 ようやくセラードコーヒーの生産地モンテカルメイロの街に着く。 日系のコーヒー農園<IRMAOS MAMOSE>のTaihei Korogi氏に会う。 コオロギ氏は宮崎県の生まれで、1959年南米産業開発青年隊に参加し、24才でブラジルに渡る。 1300名の移住者と共に45日の航海で度泊する。

1965年30才でパラナ州でコーヒー農園を経営する百瀬(MAMOSE)一族の長女(アイデさん)2世と結婚する。 1974年にここモンテカルメイロに居を移し、農場の責任者として、コーヒー栽培に専念する。 1972年に入植した当時は、120ヘクタールの土地を購入したが、 現在は3000ヘクタールの広さを持つこの地方最大の農場である。 8ヶ所の農場に分かれ、全部見て回ると250kmの距離がある。 400万本のコーヒー樹が植えられており、今年は雨が少なく最悪で、 12000俵しか収穫出来なかった。 夜、コオロギ氏の自宅で奥さんアイデさんの作ったすき焼きを御馳走になる。 この地方は野菜が少なく、800km離れたパラナからわざわざ取り寄せた野菜で、 大変なもてなしを受けていると感じた。

日本に帰り、コオロギ氏が作ったコーヒーを<南緯18>のブランドで発売する。 モンテカルメイロが南半球18度の緯度にある事からブランド名を付け、 不毛の大地セラードを開拓したコオロギ氏の<フロンティアスピリッツ>を打ち出した <南緯18>ブランドのコーヒーである。 私が作った<LATAZA>、<オールドビーンズ5Yer>、<南緯18>の 生産農家直の作る人の顔の見えるコーヒーの三作目である。

翌9月28日モンテカルメイロ〜ウベランデア〜ウベラバ〜アラミナ〜フランカと 380kmを4時間かけてフランカに着く。 <COCAPEC>の農協を訪問し、組合員の<ファゼンダ デコレス>農園を見学する。 82ヘクタールの大変小さな農園で、1500俵のコーヒーが収穫される。

翌日フランカからピナール(PINHAL)にイルマンリベール社の日系2世のブラジリオ田口氏を訪ねる、 彼とは何度か面識があり、イルマンリベール社の別荘にて昼食を御馳走になる。 積もる話を重ね親交を暖め別れた。 帰国後半年経った頃ブラジリオ田口氏の逝去を知る。 彼の冥福を祈りたい。 その後彼の長男が来日し食事を共にする。

再開後、半年余りで亡くなった日系2世のブラジリオ田口氏(写真右)と筆者 再開後、半年余りで亡くなった日系2世のブラジリオ田口氏(写真右)と筆者。
後方はコーヒー乾燥場、黒く見えるのがコーヒー豆。

600kmの道のりを2泊3日でミナスゼライス〜サンパウロ州のコーヒー地帯を回り、サンパウロ市に戻る。 ブラジルは日本の23倍の広さがあり、この距離くらいでは、地図上は1cmくらいの移動であった。

言葉の不自由さは笑顔で

9月30日PM9:30アマゾンの真っ只中マナウスに向かって飛ぶ。 途中首都ブラジリアに降り、マナウスに着いたのは10月1日のAM0:30の真夜中で、 出口で<AKAGAWA、TUTIYA>と書いたプラカードを持つたガイドがおり、ひとまず安心する。 車に乗りホテルに向かう車中、ガイドが話をするが、彼の日本語がサッパリ理解できない。 彼の自己紹介で我々はインド人と思っていた。 顔も浅黒いし、時間が経つごとに話が断片的にかみ合わない。 ようやくインド人ではなくインディオと言う事が解る。 ジャングルの中の道を1時間走り、アマゾン河のたもとにあるホテルに着く。 直ぐに部屋で眠り、朝土屋氏と今日のスケジュールは何だろう、 と話しをしながらガイドを待つが、いっこうに来る気配がない。 さてどうするか思案にくれる。 この3泊4日のマナウス滞在のスケジュール表は無く、 行けば全て段取りが就いているものと思っており、 アマゾンのジャングルのホテルであり、市内まで車で約2時間あるとのこと。 私と土屋氏のもてるだけの英語力を屈指しても通じない。 このスタッフはポルトガル語しか通じない。 さて困った。 丁度ホテルの前からアマゾン河観光船の出発の汽笛が鳴っている。 よしあれに乗ちゃえ!と2人で出港間際、飛び乗る。

夕方帰り、土屋氏とこれからどうするか相談する。 街に行くにも遠いし、行っても観光名所も知らない。 とにかくこのホテルで過ごす事を考え、まじで<ポルトゲェス>の本を開き、 何処で夕食か、メニューは何か、その他必要な言葉を空覚える。 2日目の朝、土屋氏が赤川さんの部屋は掃除してますかと聞く。 朝食をして帰ると綺麗になっているよ。 土屋氏曰く俺の部屋は掃除していないんだ、赤川さん頼んでよ、と言うから、 自分で頼んだらと答える。 部屋の前で話しをしていると、丁度向こうからホテルのスタッフが来る。 土屋氏、突然、

「俺の部屋を綺麗に掃除しておけ!」

と日本語で怒鳴りつける。 朝食から帰ると部屋は綺麗に掃除されている。 土屋氏の満足気な、<どーだい俺の言葉も満更でもない>と言う顔つきが、今でも懐かしい。 結局、言葉で不自由したアマゾン旅行であったが、 慣れたら言葉より笑顔が一番相手に良い印象を与え心が通じる。 下手な言葉より笑顔があれば楽しい時間を過ごせる。 土屋氏との二人旅は、楽しくもあり、スリルもありの思い出深く、 いつまでも記憶に残る事であろう。

記:2004年10月

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