スペシャルティコーヒー豆 AKAGAWA

秘境のコーヒー カロシ・トラジャー

はじめに

トラジャー伝統の家 トコナンハウス トラジャー伝統の家<トコナンハウス>
船の形をしており、現在は建築費が高く、新たに造ることが出来る人はお金持ちである。

1991年7月。四輪駆動に揺られて3時間。

「あとどれくらいかかりますか?」

お尻は痛いし、頭は車の天井にぶつかるし、 とうてい道とは言えないガタガタ道を時速10kmで進んで(走っているとは言えない)、 カロシトラジャーコーヒーを目指して進むが、我慢の限界ギリギリでようやく到着する。

某コーヒーメーカーのトラジャーコーヒーが日本で評判に成りつつある。 是非に行ってみたいと仕入れ先の丸紅食料に頼み込む。 某コーヒーメーカーはトラジャーに直営のコーヒー農園を造り、日本で販売している。 トアルコトラジャーコーヒー以外にも美味しいコーヒーが必ずあるはず。 それを探してみたいと要求するが、丸紅食料も扱ったことが無く、困ったようであるが、とにかく日本を発つ。 私、小森谷(ミカドコーヒー)、 荒川(ザコーヒービーンズ)、 森川(ザコーヒービーンズ社員)の4名のミッションである。

インドネシアに着く

ジャカルタの空港に着くと、 先に来ていた丸紅食料の関根氏が出迎える。 今回はトラジャーに行けるかどうか尋ねると、 丸紅ジャカルタ支店の食料部長の梶川氏がスケジュールを組んで待っているとの事。 これは期待できそうである。

さっそくホテルで梶川氏と会う。 彼とは日本とブラジルで大変お世話になった方で、数年ぶりにお会いした。 梶川氏は丸紅の社員でコーヒーの仕事が長く、ブラジルのコロラド社の社長も務め、 日本でも彼を知らない業界人はいない程の有名人である。

さっそく今回のトラジャー行きのスケジュールについて尋ねると、 梶川氏も明日からのスケジュールが良く分からない、 とにかく明日一番の飛行機でスラウェシ島のゥジュンパンダンまで飛び、 そこで今回の仕掛け人と会ってからの話しだと言う。 ゥジュンの空港に現れたのは<スエドモ氏>と名乗る華僑であり、 インドネシアで有名な食品総合メーカーの社長の弟の重役であった。 彼の会社はインドネシアでもコーヒーメーカーとしてはトップであり、 今回トラジャーで初めてコーヒー農園の事業を始めていて、 皆さんに是非見てもらいたいと、自ら案内役をかってくれた。

タナ・トラジャー

1日一便の20人乗りくらいの超小型飛行機で、 スラウェシ島中央部トラジャー県マカレ空港に、1時間で到着。 空港とは名ばかりで、滑走路と小さな建物だけ。 丁度日本の無人駅舎の様な建物で、レーダーが無いから雲がかかったりすると、 せっかく飛んできても空港に着陸せずに帰る場合も多い。 その後3回トラジャーに来たが、この路線の飛行機は廃止になっていた。 今はゥジュンパンダンがマカッサル市に名が変わり、 そこからトラジャー迄車で6〜7時間かかる。

マカレ空港に到着後さっそく昼食で、川沿いのお店に入る。 メニューは1品だけで川魚の焼いたものとスープ、ライスだけ、 他のお客は皆手で食べているが、我々はスプーンで食べる。 味はいまいちで他の同行者は食べないが私はしっかり食べる。 郷に入ったら郷に従えで私は何処に行っても食べ物に不自由しない。

秘境の農園に向かって

さっそく出発する。1時間くらいは、でこぼこながら舗装道路を走っていたが、 その後はこれが道かと思うような所を走る。 そのうちこれは道ではない、無理に岩を敷いて道としたような所を走る。 車が震度5くらいに揺れながら、お尻は痛くなるし、頭は車の天井にぶつかるし、 もうこれ以上絶えられない頃、ようやく農園に着く。 車中から望む家々は、高床式で板で囲んだだけの簡素な作りである。 テレビで見たベトナム戦争の映画にでてくるベトナムの農村の風景を見ているような錯覚に成る。 もちろん電気も無く、交通手段は歩きだけ、道路が必要無いわけである。

カロシ・トラジャー農園

夕方農園に着き、ゲストハウスに入る。 この建物は簡素ながら洋風であり、発電機を使っており、闇夜だけは免れた。 汗をたっぷりとかいたのでシャワーを浴びたいが、当然あるべきものが無い。 シャワー室の中に山からの水を貯めた水槽があり、それを柄杓で汲み浴びるのが、 インドネシアの常識マンデイ(水浴)である。 挑戦したが水が冷たくて、とても浴びれないで顔を洗って我慢する。 トイレには便器こそはあるが、やはり水溜めがあり、用を足した後は、 柄杓で水を汲み左手でお尻を拭く。 便器も柄杓の水で流す。 これがインドネシア流トイレ活用方法であり、 一般的にはトイレ兼シャワー(マンデイ)室である。 水を使って手でお尻を拭くのも、慣れるとサッパリとして捨てがたいものがある。

夕食は大変美味しかった。 川魚の焼いたもの、庭先で放し飼いの鶏の唐揚げ、ナシゴレン(炒飯)ミイゴレン(焼きそば)、特に鶏が旨かった。 これが本当の地鶏ではないかと思った。

ゲストハウスの夕食 ゲストハウスの夕食
全て美味しかった。特にサテ(ヤキトリ)は最高。

農園の歴史

食後にスエドモ氏からこの農園の歴史を伺う。 この農園はオランダ植民地時代にオランダ人が経営しており、 1940年頃日本軍がインドネシア解放の為来た頃、 オランダ人が農園を放棄し本国に帰ってそのままになっていた。

1985年にオランダに旅行したときに、資料館で見つけた文献の中に、 このトラジャーの地にコーヒー農園があった事を知り、 帰国後文献を便りに山中を歩いてこの場所を探し見つけた。 一帯は荒れて農園の面影もないほどに鬱蒼と茂り、ジャングル化していたが、 一部にコーヒーの樹が残っており、この場所がそうであると確信し開墾する。 また今いるこのゲストハウスも荒れて、いまでも崩れ落ちそうであったが改修した。 当時のオランダ人の農園主の邸宅であったようである。

ゲストハウス内にて、農園の幹部たちとの懇談風景 ゲストハウス内にて、農園の幹部たちとの懇談風景

素晴らしいカロシ・コーヒー

「ようやく1991年の今年、販売出来るほどのコーヒーが収穫出来るので、 皆さんに見てもらい、是非日本に輸出したい。 ゲストハウスがあるこの地域は、標高1500mあり、 コーヒーはこの上の方1700mの地域にある。 夜は大変寒く日中との温度差が15〜20度もあり、大変良いコーヒーが穫れる。 また山からの湧き水で水洗処理し、天日で乾燥させるので、 素晴らしいコーヒーが出来る。」

と、スエドモ氏は自信を見せる。

翌日は農園内を一日かけて見て回る。 労働者はこの地域に住むトラジャー族の女性達が、コーヒーの赤く熟した実だけを積んでいた。 皆外国人を見るのは初めてらしく、仕事をしながら横目でちらちら盗み目してる。 摘み取りが終わると全員で道ばたにビニールシートを広げ、 その上で赤く熟したコーヒーチェリーだけをもう一度選別する。 何とも見ていて気持ちの良い光景である。 ここまでコーヒーに手をかける作業はなかなか見れない。 農園自体はまだ新しいが、将来が楽しみである。

トラジャー族の女性たちによるコーヒーの実の選別風景 トラジャー族の女性たちがコーヒーを収穫後、 自分の収穫したコーヒーを赤く熟した実以外のものを選別する。 その作業を監督する男たち。

農園内の坂道にオランダ人が残した爪痕とも結うべき石坂があった。 真っ黒く日焼けした小柄な老人が近づいて来て言うには、

「この地に日本軍の落下傘部隊がおりて、野菜などを作っていた。」

と話してくれた。 労働者のなかの若い女の子の一人を指し、あの子のおじいさんは日本人とも語っていた。

予期せぬ農園での2泊

午後の3時過ぎになっても帰ろうとしない。 聞いてみると今夜もここに泊まるとのこと、エーと思ったが腹を決め、夜は水でシャワーする。 冷たいの何の心臓が止まるかと思った。 昨日は消灯するスイッチが解らず、明るさと寒さと発電機の音で眠れなかったが、 今夜は腹を決めたせいかよく眠れた。

翌日トラジャーの中心地ランテパオに着きホテルに入る。 ランテパオの町自体が日本の村をちょと大きくした程度であったが、 秘境の地から戻ると大都会に見えた。 我々は物質文明の中しか生きられないのではないかと思う。 やっと熱いシャワーを浴びて生きかえったトラジャーの旅であった。 この秘境の農園を訪れる事も、これが最初で最後と思ったが、 結局1992年、1993年、2002年と4回も来てしまった。

記:2004年11月

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