スペシャルティコーヒー豆 AKAGAWA

コーヒーの師(1)

ただ一人頭の上がらない人

1971年ブラジルに行く。 入社後半年ほど経ったとき社長からブラジルに行って、コーヒーを勉強してきてくれと話がある。 その事について少し相談がある、

「君は貯金があるか?社員の誰も海外にやっていないのに、 入社間もない君をブラジルに行かせるには、社内の抵抗があるので、 君の方から是非行きたいから、お金も預けた事にしてくれ。」

納得はいかなかったがブラジル行きたさに承諾する。

当時為替は1ドル308円で、ペルー、ブラジル、アルゼンチン三カ国の行程で、 エアーチケット代が75万くらいかかった様な記憶がある。 羽田発でアラスカのアンカレッジ、ペルーのリマ、ブラジルのリオデジャネイロと 三回のトランジットで目的地のサンパウロに着いたのは、 羽田を発ってから35時間後で機内食を5回も食べた。

空港に出迎えたのは小室博昭氏(コロラド社クラシフィカドール)、 塩澤敏明氏(富士コーヒー社長)、服部卓也氏(シーシーエスコーヒー社長) 3人の日本人であった。

コーヒーの師匠たち 塩澤敏明氏(写真左)、服部卓也氏(同右)

コロラド社はブラジルで成功した日本人達が作ったコーヒーの輸出会社である。 小室氏は日本で大学卒業後直ぐにブラジルに渡り、 苦労を重ねブラジルで生きるにはコーヒーであると確信し、 政府公認のクラシフィカドール(コーヒーの品質鑑定師)の資格を取得した。 当時はブラジルでもトップクラスのクラシフィカドールであった。

塩澤氏、服部氏両名は名古屋のロースターの跡継ぎで、 大学卒業と同時にコロラド社の小室氏に弟子入りしコーヒーの研修に励む。 彼等が3年間の研修を終え日本に帰国後、これが縁で現在も大変お世話になり、 業界の先輩としてご指導頂いている。

さて、ブラジルでの滞在はサンパウロ州サントスで、ブラジル各地からコーヒーが集まる。 コーヒーの取引所があり、ブローカーが通りをうごめき、シッパーがひしめき合い、 世界のコーヒー産業はここを中心に回っているのではないかと思うほどの活況があり、 世界一のコーヒーの輸出港である。 また、リゾート地としてもリオデジャネイロに劣らず、 素晴らしい海岸にそって建つホテルやマンション群は目をみはるものがある。 第一回の日本移民船から何十万人もの日本人移民が最初に着く所がサントス港で、 ここからブラジル各地に夢をふくらませながら散っていった。

サントス滞在は5日間で、宿泊したホテルは海岸通りにあり、以前は賭博場であったと聞く。 石作りの古い建物で部屋も広く、バスルームはユニットバスではなく、 広い部屋の床に洋バスが置いてあるだけで、一度はバスの外に湯をこぼし、 排水口が無く床を水浸しにしひどい目にあった。 いつも風呂に入るたびに冷や冷や物であった事が思い出される。

毎朝ホテルに塩澤、服部氏が迎えに来てコロラド社に向かう。 コーヒーのカップテストを一日400杯くらい行う、一日の研修はコーヒーで始まりコーヒーで終わる。

この日から我がコーヒーの師である小室氏との付き合いが始まる。

「どうしておまえの様な若い、入社間もない者がブラジルくんだり迄来るんだ?」

歯に衣を着せぬ小室氏の第一声である。

記:2004年2月

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