スペシャルティコーヒー豆 AKAGAWA

素晴らしい仲間達

コーヒーマンクラブの設立

2004年3月福岡空港。

「ようー赤ちゃんしばらく、元気?」

あちこちから声が掛かる。 私が会社を退社し、独立してから1年4ヶ月、 久し振りのコーヒーマンクラブCMC会)の参加である。

この会の発足は昭和54年で、6名でスタートした。 「コーヒー人生」(コーヒーの師(1))で登場した<服部卓也氏、塩澤敏明氏> 二人がブラジルでの研修を終え、日本でコロラド社(コーヒーの輸入会社、 後に丸紅食料に吸収)に勤務後、 故郷の名古屋にある父親が経営するコーヒーロースターに帰る。 彼等が名古屋に帰った後も、私は何度となく遊びに行き、お付き合いさせて貰っていた。 その後、大阪ダートコーヒー中川氏、 ドトールコーヒー鳥羽氏(現ドトール社長の弟) の2名とも知り合う。 1979年(昭和54年)コーヒーマンクラブCMC会)を発足させる。

服部氏(現シーシーエスコーヒー社長)、 塩澤氏(富士コーヒー社長)、 中川氏(ゲットコーヒー社長)、 鳥羽氏(CMC会退会、 ドトールコーヒーショップオーナー)、 宇都宮(CMC会退会、 ミカド珈琲商会退社)、私の6名で、 コーヒー業界やコーヒーの知識の情報交換、会員の親睦等を目的に設立する。 当時はみんな若く、鳥羽氏以外は20代後半であった。 そんな若さが将来の日本のコーヒー業界を背負って立つ意気込みから <コーヒーマンクラブ>の名前が生まれる。

6名からスタートしたCMC会は瞬く間に、 加藤氏(ワールドコーヒー、 癌を患い闘病の甲斐なく亡くなる)、 永井氏(トミヤコーヒー専務、 現CMC会休会中)、 石川氏(マックコーヒー専務)の3名が入会し、年3回の例会も活発になるが、 鳥羽氏、宇都宮氏の二人が会社を退職したことにより、 CMC会を辞める。 会則に会員はロースターに限るとあり、退会を余儀なくされる。 9人から7人に減るが、 瞬く間に加藤氏(ボンタイン珈琲会長)、 川地氏(カワチ珈琲社長)、伊藤氏(イトー珈琲社長、その後退会)の名古屋組が入会する。 これで10名の所帯となる。 その後、永田氏(キャラバンコーヒー社長)、 長谷川氏(日東珈琲副社長)、 萩原氏(萩原珈琲社長) が入って13名となり、例会もにぎやかになる。 いろいろな各社の営業方針や販促物、業界の動きなどの情報交換が活発に交わされる。 当時は誰も未だ経営職には就いておらず、自分の夢を織り交ぜた自社の苦言も出たものである。 そうゆう議論の中でコーヒーマンであるからには、 一度コーヒーマンクラブでコーヒー産地を勉強しに行こうと決まる。

第1回コーヒーマンクラブ コーヒー産地研修(インドネシア)

1986年インドネシアに8名で向かう。 当時のCMC会の会長が川地氏である事から、 当然ミッションの団長が川地氏に決まる。 塩澤氏、中川氏、萩原氏、永田氏、 加藤氏(ボンタイン加藤氏の弟)、 川地氏、関根(当時丸紅食料で このミッションのアテンド役、 現キャラバンコーヒー勤務)、 私のメンバーで出発、5泊でジャカルタ、スラバヤ、パレンバン、メダンのシッパー、 農園と分刻みのスケジュールをこなす。 こんな中身の濃いミッションは二度と出来ないと思う。

若さとは何事も恐れず、挑戦出来ることである

このミッションで一番記憶に残るは、萩原氏、永田氏はお酒が飲めないので、 飯時になると何を飲みますか?(Dua ko-ku、コーラ二つ)、 中川氏のインドネシアの(スシ)は美味しかった、が今でも鮮明に思い出される。

暫くして、 岡山の阪神食品の大倉氏、 姫路の成田珈琲の成田氏が入会する。 ボンタイン珈琲の加藤久米雄氏も インドネシアへのミッションに参加した以後、CMC会に出席する。 16名を超す大所帯になり、大活況を有する時期であったが、 反面ワールドコーヒーの加藤氏が帰らぬ人となり、 仲間みんなで葬儀に参列する。 また、トミヤコーヒーの永井氏が 事情によりCMC会を休会、イトー珈琲の伊藤氏が退会する事になる。

会員の結婚式

目出度い事もある、中川氏、永田氏、長谷川氏、成田氏、 加藤氏の長男慶人氏(現ボンタイン珈琲社長)達の結婚である。 その都度みんなでお祝いに招かれる。 特に中川氏の結婚式は思い出深い。 彼は40才過ぎてからで、新婦が新卒の入社早々の初々しい20才過ぎたばかりの美人である。 これは一体どうした事か皆吃驚する。 本人曰く、

「彼女が私の結婚する相手は貴方しかいないと、逆に捕まってしまった。」

40才を過ぎたオッサンから出た言葉である。 その後、彼は、子供も生まれ、奥さんの内助の功と励ましもあり、 ダートコーヒーを退職し、 新たに<ゲットコーヒー>を創業する。 やはり彼はタダのオッサンではなかった。

その後、トーアコーヒーの浅野氏、 極東ファディの秋本氏が入会し、 二人がCMC会で一番若く、書記を秋本氏(それまで萩原氏)、 会計を浅野氏(永田氏)がやることになる。 萩原氏、永田氏はようやく解放される。 たぶん10年近くやったと思う、大変ご苦労さまでした。

最後の入会者がアラブ珈琲の西埜氏で、現役の社長職での入会者は初めてである。 これで総勢15名15社の体制になり5年くらい経つ。 会長職は一年で順番に回り、例会は年3回行い、関東、中部、関西または九州で開催する。

第2回コーヒーマンクラブ コーヒー産地研修(ベトナム)

1998年2回目の海外研修を実施する事になり、世界第2位のコーヒー生産国ベトナムを選ぶ。 参加者は服部氏、塩澤氏、加藤氏、萩原氏、永田氏、 藤原君(ミカド珈琲商会社員)、 私の7名で 丸紅食料の浅原氏がアテンド役で参加する。 団長は服部氏で藤原君以外は海外経験のベテラン揃いである。 当時、藤原君は私の部下で、このミッションで勉強させてやりたく同行させたが、 ベトナム行きが納得ゆかず、直属の上司に辞退していたらしい。 この話をベトナムでの夕食の席で私が話したら、加藤氏に藤原君が強く説教された。 この事により藤原君も何か吹っ切れて、後半のスケジュールを皆にとけ込んでこなす事が出来た。 藤原君は入社2年目の25才で、コーヒー産地はもちろん初めてであり、 他のメンバーは50才前後のコーヒー業界の重鎮達である。 緊張と不安、CMC会の仲間が余りにも仲が良く、 馬鹿話ばかりして自分が中に入れなかったが、 その後は積極的に話しかけ、最後には皆にかわいがられていた。

ベトナムの思い出は、風邪をひいたことである。 ベトナムは大変暑い国だが、移動中のバスの中いつも、

「アー暑い暑い、クーラー強くしろ!」

と叫ぶ輩がいた。 おかげでこっちはバスの一番後ろの席で寒い寒と震えていた。 その犯人はみっちゃん(加藤氏)である。 彼は私の2倍はある体格をしている。 また、塩澤氏と藤原君は義兄弟になったようである。 よほど塩澤氏に気に入れられたのか?

コーヒーマンクラブの今後

2004年CMC会のメンバーはほとんどが経営者になり、 コーヒー業界各種の団体の要職をしている。 私は退職し、自家焙煎店を営み、業界のお役には立てないが、 みんなが業界発展の為に努力している事に敬意を払うとともに、 CMC会に復帰出来たことに大変感謝している。

CMC会も設立して25年経つが、皆が高齢になるに従い、 今までの様に情報交換や親睦一辺倒で良いのか?さらに検討すべきと思う。 なぜなら、もうすぐ後継者に後を任せる時期が目の前にある。 現役を引退した同士のCMC会は何を議論するのか? 後継者がCMC会に参加する様になったら、 今までの主旨であると仲間に入って来れないと思う。

私は思う。コーヒーマンクラブは業界の機関ではない。 従って、設立当初の情報交換や親睦が中心の会員一代のCMC会で良いと思が、 <コーヒーマン>の名前通り、 いくつになってもコーヒーに関する事や 高品質なコーヒーを追いかけるCMC会にしたい。 そんなコーヒーマンクラブ

業界の集まりでもない、友達でもない、
あえてコーヒーの仲間達と呼びたい。

記:2004年7月

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