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心に残る強烈な思い出(2)

何処にでもいる日本人

マヤ文明最大の都市遺跡テイカル。 グアテマラ北部ペテン県の大密林に埋もれ、 わかっているだけでも3,000の構築物が数えられている。

グアテマラシティから飛行機で1時間。 フローレスというペテン・イツアー湖畔の町へ。 そこから車で1時間の密林のなかにある。

フローレスの町から離れた湖畔のホテルに泊まった時 (ホテルと言っても全てロッジで、夕食のレストハウスも外である)、 食事中、上の方から何かの鳴き声がうるさいので、暗いなか目を凝らして見ると、 何とオウムが木に沢山留まっているではないか。 それも日本で見るような小さくなく、 カラフルな色をした白鳥くらいの大きさの野生のオウムである。

フローレスはペテン・イツアー湖に浮かぶ小さな町で、 何とも言えない情緒ある町で、車も少なく、町の至る所から湖が眺望出来る。

さて、テイカルの入り口からジャングルへ入ると、まずは木の上のサルの出迎えである。 まずは遺跡群の中で一番高い4号神殿へ。 741年の建造物であると神聖文字に記録がある。 高さ70mあり、鉄ばしごを使って登り、ようやく一番上に着いたと思い、 後方から来る仲間に、

「着いたぞ、もう少しだ。頑張れ!」

と、さけんだ時、

「まだ上があるよ。」

と、日本語が飛んでくる。何と一人の日本男性が居た。 こんな処で日本語が飛んでくるとは、一瞬疲れが一気に出た気分になる。 しかし、その上の頂上から見下ろす大遺跡の全貌と、果てしなく続くジャングルは、 マヤ文明の偉大さとロマンを感じさせる。

アクシデントだらけのアルゼンチン

1973年に南米ペルー、ブラジル、アルゼンチンに行ったときの事。 当時、日本でも赤軍派などの過激派がおり、 世界的に飛行機のハイジャック事件があり、 搭乗時のチェックは厳しかった。 サンパウロでのスケジュールも終わり、 次はアルゼンチンのブエノスアイレスに飛ぶとき、 サンパウロの我々がお世話になった日本人から、 当時私が勤めていた会社の社長宛にお土産を託された。 それが額縁にはめ込まれたピストルであった。

当然、ブエノスアイレスの入国審査で引っかかり、 何を聞かれても言葉が解らない。 3人のツアーで他の人も解らない。 (アミーゴが迎えに来ている)私が話せるスペイン語はアミーゴのみ。 全く通じず2時間空港に足止めされる。 やっと解放され空港玄関を出ると、 青い空が日本の空より下に感じたのがアルゼンチンの第一印象である。

出迎えに来ていた商社の人も、 当時は日本人の駐在員も一人で、我々のアテンドをしている余裕は無く、 2日間ブエノスに滞在したが、全くスケジュールが無く、 半日ホテルに居たり、市内をブラブラしたりして過ごす。 私も海外旅行は初めてで、何の予備知識も無かったので、 言葉も、地理も、観光スポットも解らず、 今考えると何と無駄な時間を過ごしたことかと悔やむ。

夜になると、商社の人が来て夕食に出かける。 アルゼンチンの羊を一頭丸ごと吊して焼いた料理は、美味しかった様な気がする。 食事後、アルゼンチンタンゴを聴きにタンゴ発祥地の港町に行く。 タンゴそのものにも興味は当時無かったが、前座の漫才のようなものを観客の笑いのどよめきがすごいが、 こっちは何にも解らずなにも楽しくない。 気まずい雰囲気の中やっと解放される。 後になって余りにも自分の無知さに恥じ入る。 ブエノスを離れるにあたり、商社の人の見送りを受け、 チェックインをすませあとは、離陸を待っていると、係員が何かを叫ぶが理解出来ない。 こちらにこい、と言っている。 ついていくと空港内のホテルに着く、どうもここで待て、と言っていると理解し、8時間近く待ち、 ようやく飛行機がリオ・デジャネイロに向かって飛ぶ。

飛行機の故障で遅れたのであるが、言葉が解らないと全く意志の疎通が出来ない事が、 身体にしみたアルゼンチンであった。

美味しかったウサギ料理

コロンビアへ行った時のこと。 首都ボゴタは標高2000m以上あり、大変涼しく過ごしやすい。 ボゴタから車で4時間くらいのリゾート地に行くには、 当然全て道路は下りである。 途中、昼食時間になり、山の中の食堂(飾りも何もないただテーブルとイスが数脚あるだけ)の店に入る。

何が食べれるか聞くと、ウサギがあると言うので、お願いする。 我々はビールを飲んで待つ。 30分経っても出てこない。1時間経ち、そろそろ酔いが回ってきた頃、ようやく料理が来る。 山で穫っておいた野生のウサギを、注文してから解体し、料理したので時間がかかった。 ウサギを食べるのは当然始めてであるが、この美味しさにビックリ。 臭みも無く、脂ののった鶏肉の様な味である。 なぜかこの時子供の頃歌った<うさぎおいしかの山>が頭に浮かぶ。

ナイキのシューズも日本の3分の1の価格

1996年頃、日本ではナイキのシューズが大流行で、 一番人気の物はなかなか手に入らず、あっても価格が7〜8万円していた。

エビ(ブラックタイガー)の勉強にタイに行き、エビ田の広がる首都バンコクから、 飛行機で1時間のハジャイと言う街のデパートに行くと、 そこには日本で7〜8万円もする品物が、25,000円位の値段で売っていた。 一緒に行った仲間の一人が、子供のお土産に買う。 現在はこの価格以下で買えると思うが、 需要と供給のバランスで値段は決まる。 余り関係は無いが、私の実家は新潟の米農家である。 やはりこの頃、日本では米不足になり、新潟のコシヒカリ1俵(60kg)が、 平年は25,000円くらいが7〜8万円にも値上がりしたことを思い出す。

記:2003年10月

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